明治27年 | 矢野馬太郎 ・現塩屋町にて団扇・竹骨製造開業 |
明治37年 | 大矢商会設立 ・製品販売開始 |
明治42年 | 塩屋団扇合資会社設立 |
大正 ~ 昭和 | 矢野浅次郎・三郎と事業継承 |
昭和20年 | 矢野団扇店設立、同時にカレンダー販売を開始 |
昭和30年 | 有限会社矢野団扇設立 |
昭和36年 | 矢野団扇株式会社設立 代表取締役に矢野三郎就任 |
昭和61年 | 部分自動うちわ貼機導入 |
昭和62年 | 代表取締役に矢野俊郎就任 |
平成 2年 | タック式うちわ貼機導入 |
平成 6年 | 営業本部・新社屋落成 |
平成 6年 | 汎用型うちわ貼り機導入 |
平成 9年 | 新式うちわ自動貼機導入(2台) |
平成10年 | 製品名入れ印刷機増設 |
平成12年 | インターネット接続、マックシステム導入 メールによる原稿授受開始 |
《江戸時代》 |
★男竹丸柄うちわの起源 寛永10年(1633年)ごろ、金比羅大権現の別当、金比羅院住職宥光は、「金比羅宮の 御紋である天狗の羽団扇にちなむ金印の『渋うちわ』を、毘比羅宮のお土産として作ろう。」 と思いつき、大和の大村藩から熟練者を招いて製造を始めたのが『丸亀うちわ』の起源です。 |
★女竹丸柄うちわの起源 天明年間(1781~1788年)のころ、丸亀藩主京極高朗公の江戸留守居組・瀬山四郎 兵衛重嘉は隣合の九州中津藩の足軽たちが女竹丸柄うちわ作りをしているところを見かけ、 「もし丸亀藩で団扇作りが栄えたなら、厳しい財政状況を打開できるかもしれない。」と思い、 彼はうちわ作りの技術取得を家臣に奨励し、次々に団扇作りの習得者を国詰のものと交代 して、団扇工を養成し、藩の殖産興業として取り入れました。 以後、先の「金」印団扇とあい まって、団扇作りは地場特産産業としての礎を築いていきます。 |
《明治~大正》 |
★男竹平柄うちわの起源 明治17~18年(1884~1885年)ごろには「丸柄うちわ」に加えて、富屋町の卸屋が「奈 良うちわ」に範を採る男竹平柄うちわの製造を始めました。 明治20年には、吉田利七氏がこ の技術を習得し東塩屋の自宅で工場を開いたのが所謂「塩屋平柄うちわ」の起源です。 |
明治25~29年 (1892~1896年)に大久保龍治郎氏らが塩屋村(現塩屋町)に共同工 場を開き、矢野馬太郎、小野又平両氏がこれに続き、明治27年には業界初の法人組織とし て 「丸亀団扇株式合資会社」が設立され、それまでの副業的な家内工業から大量生産に移 る地固めがなされていった。明治37年には、当時の丸柄うちわが主流の問屋販売体制に抗 して、 平柄うちわ擁護のため大久保・矢野両氏が立ち上がり、男子工30名、女子工40名を 擁する「大矢商会」を設立し、生産工場から県外への直接販売を行い、一時はインド・アメリカ にまで販路を拡大していった。 さらに同41年「塩屋団扇職工組合」、そして42年には 「塩屋 団扇合資会社」と設立改組されていき、「塩屋平柄うちわ」は紆余曲折を経ながらも合同の方 向で発展し、業界におけるその影響力はは大正末期までおよんでいった。 大正時代には扇骨の「切込機」、 「穴開機」が導入され、需要が急増しつつあった広告宣伝 用団扇に対応できるようになりました。これによって 「塩屋平柄うちわ」 はさらに大量生産され るようになり、のちに「丸亀うちわ」の代名詞といえるほどまでに発展する基礎が造られたのです。 |
《昭和時代 終戦まで》 |
多くの技術が生み出されていく中、昭和8 ~10年(1933~1935年)には、待望の「名入 れ印刷機」の登場です。貼り立て後の名入れ印刷が可能となり、既製品の「作り置き」、早期 受注が可能となり、 全国各地の張り立て業者も次第に丸亀の既製品を使用するようになって いきました。 しかし、昭和13年 (1938年)以降、戦時の人手不足、資材不足により生産は徐々に減少 の途をたどります。そして、昭和初期まで「丸亀うちわ」の主体を占めていた女竹丸柄うちわは 価格的に不利になり、一部業者を残し平柄うちわ一辺倒の体制へと移り変わっていきました。 |
《昭和・平成 戦後以降~現況》 |
戦後約10年の間に、丸亀の団扇業界では協同組合の再編が続きました。一方、目まぐるし いほどの経済復興を終えた昭和30年(1955年)前後から、扇風機・冷房機の登場、プロパン・ 都市ガスの普及などを背景に、 日常生活における団扇の必需性は次第に薄らぎ、実用品とし ての需要が急速に低迷していきます。これを受けて、 「丸亀団扇協議会」、 「丸亀市団扇対策 委員会」が発足、昭和41年(1966年)には、当時の既存組合に未加入業者ほぼ全員が参加 して 「京極団扇商工業協同組合」が設立され、先行設立の3組合と合わせて香川県のほぼ全 ての団扇業者を網羅することになり、4者で 「香川県うちわ協同組合連合会」を結成、これが認 可され、戦後初の業者一体の正式な協力団体が生まれた。 このように業界全体に合同化の気運があがる中、製造 ・販売のあり方もオフセット印刷により 合理化された多色刷り、コストダウンを狙ったポリプロピレン製うちわ・中国製竹うちわ、 工程の 短期化・「地紙」の機械貼りなど、団扇業は短期集中大量生産を目指し、大きく変化しました。 そのかたわらで、このあおりを受けたのが地場の「竹うちわ」「竹骨」です。ポリプロピレン製品・ 中国製品との価格差に対抗しきれず、伝統的な地場の 「竹うちわ」は現在危機的ともいえる状 況を迎えています。 そんな中「丸亀竹うちわ」の伝統を伝えるべく、団扇作りの工程が見学できる実演工房を設立。 昭和63年(1988年)には瀬戸大橋博覧会会場にてうちわ作りの工程実演を行うなど「丸亀竹 うちわ」の全国的なPR活動を展開しました。また、「丸亀竹うちわ」を将来の観光資源としてとら え、平成7年(1995年)には全国で唯一のうちわ博物館、「うちわの港ミュージアム」を開館。 伝統を守りつつ新しい可能性を求めて、今「丸亀うちわ」は動き出しているのです。 |